ダンサー・イン・ザ・ダーク 00年・デンマーク★★☆
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーブ、デビッド・モース他
『奇跡の海』のデンマークの鬼才ラース・フォン・トリアー監督が、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したミュージカル悲劇。主演女優賞に輝いたビョークはアイスランド出身のカリスマシンガー。舞台は1950~60年代のアメリカ。チェコから移民したセルマは、遺伝性の病で視力を失いつつある。同じ運命にあるひとり息子に手術を受けさせるために、セルマは朝から晩まで工場で働き続けている。ところがある日、せっかく貯めたお金が盗まれてしまい・・・。

相当暗くて気が滅入るストーリーだとの評判の上、三半規管がヨワく酔いやすい私は、手持ちカメラ撮影の映画(例:『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』や、“ドグマ”系作品)が苦手。特に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、カメラをブンまわしてるとのこと。で、なかなか足が向かなかった。
しかし、意外にも私はこの作品が嫌いではなかった。

「おっ、この映画スゴイかも」と私が直感したのは、映画が始まるやいなや、真っ黒の画面に音楽が流れた時。この間3分以上。このスタイルは『アラビアのロレンス』などの往年の大作でも使われていたもので、目新しいものではないが、あえて『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で取り入れたのはなぜか。
これ、私にとってはちょっとした聴覚体験だった。暗闇の中に流れる音楽というのは、聴覚が鋭くなっているぶん、より鮮やかに心に強く響いてくる。これは、失明してしまったセルマの闇の中の感覚世界なのかもなあ・・・・と思っているうちに、ザラッとした荒い画面に、「キョロキョロと落ち着きがない人の視線」のようなカメラワークで、暗い暗いセルマの悲劇が描かれていく。

視力を失ったセルマが、爪に火をともすようにしてコツコツ貯めたお金を、それまで友人として協力してきた隣人のビルが、お金に困ったあげく盗んでしまう。話し合いで解決しようとするも、もみあいになり、セルマは誤ってビルを銃で撃つ。セルマは逮捕されてしまう。そして、処刑に至るまでの悲劇の下り坂が始まるが、この描き方のなんとも残酷で執拗なことと言ったら。処刑前のセルマのおびえ方は目を覆いたくなるほど痛いし、絞首刑執行のシーンも、ワタシ的にはR指定。

「『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は救いのない映画だ」と言う人が多いが、あれ、待てよ。処刑の直前に、息子の必要でなくなった眼鏡を渡され、息子の手術が行われたことが伝えられているではないの。この息子の手術こそが、セルマの人生の目的のすべてであり、セルマの目的は達成できたのではないの。だから、死ぬ直前に自分を恐怖から励ますように歌う歌は、力強く、満足げにも見える。神のもとへと向かう祝福ともとれる。実はこれ、ある意味ではハッピーエンドと言っていいのではなかろうか。しかし、後味の悪さといったら凄まじいものがあるけれど。

「自分も子供も失明することがわかっていて、何故子供を産んだのか」の問いに、「赤ちゃんを抱きたかったから」とのセルマの答え。これには「なんて自分勝手な愚か者なんだ!」と憤怒した方も多かったようだが、その愚かな行為をセルマはちゃんと自分でオトシマエをつけているからいいのではないか。「では、母親を失った子供の気持ちはどうなるのか」・・・まあ、セルマの愚かさは、ツッコめばキリがないほどある。しかし、自分の運命を受け入れ、子供だけには手術を受けさせることがセルマの人生のすべてであり、その自己犠牲ぶりが愚かであろうと、セルマの意固地なまでの強さには、良い悪いを超えて感動させられてしまう。

そんなセルマをビョークが全身全霊で演じきっている。ビョークの歌声はすごい。くぐもった声なのに、破裂するような音を出す。野性動物のような容姿は、一度見たら忘れられない印象を残す。小さな身体全体から放出するエネルギー量がハンパではない。行動もけっこう動物的で、何かにキレて女性記者だかに襲い掛かっているビョークの映像を見たことがある。とにかく、100年に一人の逸材ではないかと私は思っている。

『奇跡の海』でははっきりと描かれているが、ラース・フォン・トリアー監督はキリスト教的人生観がバックボーンにあり、映画に表現している人だと思う。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でのセルマの逆境につぐ逆境の人生も、愚かではあるが無私なる母の愛を貫かせるところも、罪を背負って死を受け入れる所も、イエスの壮絶な生涯や、愛の教えをモチーフにしているのかも・・・と思ったのだけど。日本でこの作品の評価が低いのは、そういう宗教的背景の違いも理由のひとつかなと思ったりして。


index top